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「 本堂葬 」の検索結果
  • お寺葬無料説明会
    お寺葬無料説明会に参加するお寺葬無料説明会はこんな会です私たちは日本でただひとつの、お寺葬を開発・浸透・普及を専門に行う会社です。お寺葬が当たり前の社会にすることが私たちの大きな目標です。誰もが安心した金額で見送れるお寺葬。誰もが安全なお葬式で旅立てるお寺葬。誰もが安寧な祈りの中で弔えるお寺葬。お寺葬無料説明はそんなお寺葬に関して説明をする会です。主にお寺に関わる方向けに説明会は行っております。ご参加されるにあたっては制限を設けておりますので、下記の参加資格をよくお読みいただきお申込ください。お寺葬無料説明参加資格お寺葬無料説明会は参加にあたって制限を設けております。お寺のプライバシーやお寺の社会的役割を保護するため。また参加者の方々に安心した状態でご参加いただくために資格制限を設けております。以下のいずれかの条件に該当する方のみが参加ができますので予めご了承ください。また以下の条件に該当する場合でも寺院のコンサル業や葬祭事業を営んでいる方、墓石、仏具、搬送業などの事業を営んでいる方に関してもご参加はご遠慮いただいております。事前に調査して主催が参加に不適当と判断した場合は参加をお断りいただくこともございます。?僧籍をお持ちの方はご参加いただけます。?お寺の後継になる予定の方はご参加いただけます。?お寺の配偶の方の方はご参加いただけます。お寺葬無料説明会の開催予定日お寺葬無料説明会は以下の日程で行っております。オンラインで行っております。参加資格がございますので、事前によくお読みいただき、お申込ください。お寺葬無料説明会の特長お寺葬無料説明会はお寺のための説明会です。葬儀の説明会や仏教の説明会ではありません。お寺葬を通じてお寺を活性化したい、お寺を盛り上げたい、そのような心をもったお寺のために実施している説明会です。そのためお寺に関わりのある方のみを対象とした説明会ですので、一般の方のご参加はできません。お寺葬無料説明会でお話しすることお寺葬無料説明会はお寺のための説明会です。葬儀の説明会や仏教の説明会ではありません。お寺葬無料説明会ではお寺葬の実態やお寺葬の好事例、悪事例などをお話しします。お寺葬無料説明会でお話しすることは次の通りです。・お寺葬とはなにか・お寺葬を実施するための主な費用・お寺葬をうまくいかせるための手順・お寺葬導入寺院の事例・お寺葬の好事例・悪事例・こんなお寺はお寺葬はやめた方が良いです・こんなお寺はお寺葬をやった方が良いですお寺葬無料説明会はこんな方におすすめですお寺葬無料説明会はお寺のための説明会です。葬儀の説明会や仏教の説明会ではありません。お寺葬無料説明会はこんな方におすすめです。・お寺葬を知りたい・お寺葬を導入したい・お寺葬を実施しているがうまくいかない・お寺の新しい活動を見つけたい・お寺の檀信徒・門徒のために何かやりたいお寺葬無料説明会の開催予定日お寺葬無料説明会は以下の日程で行っております。オンラインで行っております。参加資格がございますので、事前によくお読みいただき、お申込ください。
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  • お寺での葬儀、お寺葬の流れ? 逝去連絡
    お寺での葬儀、お寺葬の流れはどうすればいいのかお寺での葬儀、お寺葬の流れで大切なことお寺での葬儀、お寺葬の流れで大切な点は、3つあります。1点目は、事前相談。2点目は、逝去連絡。3点目は、御礼詣り。以上3点です。前回は事前相談についてお話ししました。>>>事前相談の記事はこちらから今回は逝去連絡についてお話ししたいと思います。お寺での葬儀、お寺葬の流れで大切なこと? 逝去連絡お寺での葬儀、お寺葬の流れでまず大切なことは、「事前相談」でしたが、次にやることが「逝去連絡」つまり、実際に亡くなったことを電話でお寺に連絡することです。逝去の連絡はお寺に電話するだけですので、とても簡単なように思われがちですが、実はこの逝去連絡こそが最も重要であると私たちは考えます。それは電話をするだけということ以上に重要な意味がこの逝去連絡に込められているからなのです。重要なことは「いつ、誰に(どこに)」電話するかを知っておくこと逝去連絡はその名の通り亡くなったことを連絡することですが、最も重要なことはたった1つです。いつ・誰に(どこに)電話するのかこの1点です。亡くなるということは時と場合を選びません。対象となる方、例えば自分のお父様やお母様が亡くなる際に、喪主となる自分の都合に合わせてなくなることはありません。生命が終わる瞬間と言うのはいつも唐突です。日中、仕事をしている時に亡くなる時もあれば、深夜、寝ている最中に亡くなる時もあります。年末に亡くなる時もあれば、年始に亡くなる時もある。家族旅行の最中やお子様の結婚式、大切な試験や商談中にも人は亡くなるのです。病院や施設、あるいは警察などから電話が来て、急いでその場所に駆け付けて、死因の説明が終わった後、必ず聞かれるフレーズがあります。「お決まりの葬儀社さんとかありますか?」その時に、「いつ・誰に(どこに)電話するのか」が分かっていれば逝去連絡はスムーズにいきます。お寺に連絡する、お寺指定の葬儀社に連絡する、いずれでも問題ありません。けれども、どこに電話するかが分からない時は、あとで色々と面倒なことが起こります。それは後ほど説明しますが、いずれにしても、逝去の連絡をスムーズにすることが大切です。お寺葬で大切な逝去連絡の「いつ」お寺葬で大切な「いつ」とは、24時間365日のいつでも電話をかけることができるということです。先述した通り、生命の臨終は時と場合を選びません。常に唐突です。それゆえ、日中、深夜、年末年始に関わらず訃報というのは届きます。その際に、日中であればどこに電話する、とか、深夜であればどこに電話する、など時間的なことをきちんと認識しておく必要があります。例えば、お寺によっては、日中は電話に出られるが深夜は難しい、とか、一度はお寺に電話して出ない場合は葬儀社に電話してほしい、などいろいろなケースがあります。つまりお寺が電話に出ない場合は、どうすればいいかを事前に知っておくことが重要という意味です。電話は葬儀という緊急の場面ではとても重要なコミュニケーションツールです。大切な人を亡くしたという時に、24時間365日、電話で対応してくれる人がいるというだけで心にゆとりができ、あんしんすることがあります。お寺葬で大切な逝去連絡の「いつ」は、いつでも電話に出られることを確認するということなのです。お寺葬で大切な逝去連絡の「誰に(どこに)」お寺葬で大切な逝去連絡の「誰に(どこに)」は、亡くなった際に、誰に(どこに)電話をするかを事前に知っておくということです。お寺なのか、葬儀社なのか、事前に知っておくということです。この事前にというのがとても重要で、何かある前にしっかりと決めておく、もしくは、何かあった時に連絡できるところいくつか知っておくことが重要なのです。後述しますが、この「誰に(どこに)」を事前に決めたり、知っておかないと後にとても面倒なことがおこったり、結果として、よくない葬儀、よくない弔いをしてしまうことになります。逝去連絡を「いつ、誰に(どこに)」すればいいか分からないと・・・逝去連絡を「いつ、誰に(どこに)」すればいいか分からないと、いくつかパターンがあるのですが、病院や警察に入っている、病院や警察から仕事をもらう葬儀社がいたり、または、いくつかのパンフレットの中から自分で選んだり、きちんと吟味できない中で葬儀社を選ばされることになります。葬儀の金額は100万や200万くらいかかるといわれておりますが、実際いかがでしょうか。100万や200万するものを何の吟味もせず、何の下調べもせず購入することなどあるでしょうか。例えば、中古の車や経営セミナーでも何でも問題ありませんが、100万くらいする商品を、よく内容を確かめもせず、えいやっと言わんばかりに選ぶでしょうか。病院にも葬儀社は入っています。しかしそれは病院が吟味して厳選して選んだ葬儀社というよりも多くの病院は抽選で選ばれる場合が多い。つまり、質がどうのこうのというより、運で選ばれた葬儀社ということです。逝去連絡の際にやってはいけないことまさしく、この逝去連絡の際に最もやってはいけないことがこれにあたります。すなわち、事前にどこに連絡するか分からず、とりあえず病院や警察で紹介された葬儀社に連絡することです。これが最もリスクが高く、最もやってはいけないことです。事前に、いつ、どこに(誰に)連絡するかをきちんと把握し、事に臨むことが大切なのです。次回は、いよいよお寺葬の流れ、「お礼参り」についてお話しします。お寺葬の意義私たちは日本でただひとつの、お寺と葬儀社が共にひとりの命を弔う「お寺葬」の専門葬儀社です。儀式の執行者としての僧侶。食事などを手配する葬儀社。このふたつが弔うことを認め合い、新しい価値を生み出すことが私たちの使命です。お寺葬に関してはこちらから>>>お寺葬についてみる文責:足立信行
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  • お寺での葬儀、お寺葬の流れ? 事前相談
    お寺での葬儀、お寺葬の流れはどうすればいいのかお寺での葬儀、お寺葬の流れで大切なことお寺での葬儀、お寺葬の流れで大切な点は、3つあります。1点目は、事前相談。2点目は、逝去連絡。3点目は、御礼詣り。以上3点です。今回は事前相談についてお話ししたいと思います。お寺での葬儀、お寺葬の流れで大切なこと? 事前相談お寺での葬儀、お寺葬の流れでまず大切なことは、「事前相談」です。事前相談は葬儀社からすると、事前に葬儀の事を決めることを指しますが、お寺での葬儀、お寺葬からするとニュアンスが違います。この場合の事前相談は、「お寺との事前の相談」という意味になります。お寺で葬儀があげられるか確認する菩提寺がある、ないにかかわらず、お寺で葬儀を行う場合は、そのお寺の本堂や境内にある斎場で葬儀をすることになります。その際に、大切なことは、そのお寺の本堂、または境内にある斎場で葬儀ができるかどうか、ということです。大きな間違いをされる方がおられるのですが、「お寺だから葬儀はできるだろう」という考えは誤りです。お寺であっても葬儀を行えない、厳密に言えば、葬儀を行うことができないお寺も多数あります。例えば、天部の神様をお祀りしているお寺はなかなか難しいでしょう。天部の神様、聖天様や毘沙門天様は死を非常に嫌います。嫌がっていることを無理やりすることは神様にとって大きな失礼にあたります。神様が喜ばれない中、葬儀をあげることは、亡くなった方にとってもよくありません。神仏が見守り、安らかな中で葬儀を行うことが、神様にとっても、亡くなった方にとっても大切であると考えます。一般でも葬儀があげられるか確認するまた檀信徒・門徒や会員などしか、お寺での葬儀ができないこともあります。「一般の方への葬儀はしておりません」とか、「一般の方の葬儀はご遠慮しております」、など、あらかじめWEBなどで調べたり、電話でお問合せをしましょう。お寺は確かに公益法人で公に開かれた場所ではありますが、檀信徒・門徒の方、会員の方のために役務を提供しており、それゆえ、一般の方の葬儀ができない場所の方が多いでしょう。多くのお寺は観光のお寺などとは違いますので、きちんと事前にお伺いすることが求められます。当然、「一般の方の葬儀も問題ございません」というお寺もあるでしょう。地域の方々に使ってほしいというお寺は少なくありません。けれども、何の相談もなく、何の挨拶もなく、突然、「葬儀をお願いします」と言って、受けてくれることはないでしょう。いずれにしても必ず電話やお問合せをして、お寺葬儀があげられるのかを確認し、もっと可能なのであれば、事前にご挨拶にうかがうことが重要です。お寺と事前に相談する上でやってはいけないことお寺と事前に相談する上で、やってはいけないことは、「自分の固定観念でお寺に行く」ことです。自分の固定観念とは、お寺はこうあるべきだ、とか僧侶はこうあるべきだ、という自分の凝り固まった偏見です。自分の独りよがりの偏った見方です。こういった独りよがりの見方をしてお寺にいくことは決してやめましょう。お寺も、僧侶も、ひとりの人間です。ましてや金銭的なもの以上に、関係性を重んじる人々です。初対面であるにも関わらず「べき論」をぶつことほど、不毛で失礼なことはありません。よく、「坊主は困った人を助けるのが仕事だ」とか「寺は葬儀をするための施設だからどんな人でも受け入れろ」ということという方もおられます。けれども、これは大きな間違いです。逆の立場で考えてみるとわかると思います。私は旅行が好きで経営者仲間とよくいろいろなところに行くのですが、その時にかならず現地でオリエンテーションと勉強会を実施します。毎回、20名くらいのでその市区町村が運営する施設でオリエンテーションと勉強会を行うのですが、必ず事前に電話して、会場の空き状況や金額などをお電話で相談して、合意の上で決まります。突然、施設に行って「貸してくれ」といっても借りられません。「税金で食べているのだから施設を貸せ」というのは横暴であり、相手にとても失礼です。「坊主は困った人を助けるのが仕事だ」、「寺は葬儀をするための施設だからどんな人でも受け入れろ」という方は、これと全く同じです。突然来て、葬儀をしろとはどういった料簡なのか理解に苦しみます。自分がされて嫌なことを、平気で人にやる。お寺は、僧侶は、別物だというのは、独りよがりの偏見としか言いようがありません。僧侶やお寺は、一般的な倫理観や伝統的な考えを重んじる職業であり場所です。関係性を大切にし、敬虔な気持ちでお尋ねすることが求められるでしょう。お寺葬の意義私たちは日本でただひとつの、お寺と葬儀社が共にひとりの命を弔う「お寺葬」の専門葬儀社です。儀式の執行者としての僧侶。食事などを手配する葬儀社。このふたつが弔うことを認め合い、新しい価値を生み出すことが私たちの使命です。お寺葬に関してはこちらから>>>お寺葬についてみる文責:足立信行
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  • お寺葬という名前について
    「お寺葬」という名前は私たちが考えましたお寺葬は「寺院と葬儀社が共働し故人様を弔う葬儀」です。これまで葬儀社が使っていた、寺院葬や本堂葬、寺葬と呼ばれる葬儀と違い、明確な定義をもってお寺葬は運営されております。お寺葬と言う言葉自体は、実はこれまでありませんでした。2016年頃から使われだした言葉で、そもそもは(一社)お寺の未来様と私がセミナーを行い、そこで使われた言葉が「お寺葬」でした。お寺葬という言葉は造語ではありますが、一定の認知をもとに登場しており、この登場には弊社が少なからず関わっていることはささやかな誇りです。それゆえ、私たちは、日本でただ一つのお寺葬を専門にする葬儀社として現在も運営ができているのだと思います。2016年当時に使われていたお寺葬は、単なる「本堂で葬儀をする」という意味あいだったように思います。私自身もそのように認識しており、「お寺葬=本堂葬」というイメージでした。けれども、いろいろなお寺とお寺葬を運営するようになり、いくつかお寺葬の骨格が出来上がってきました。端的にはそれが「儀式」「金額」「依頼」「運営」なのですが、ここではなぜ本堂葬、寺院葬、寺葬と違うのか、経緯と流れをお伝えできればと思っております。お寺葬はこうして出来上がった現在のお寺葬は「寺院の葬儀社が共働して故人様を弔う」と定義しております。それ以前は本堂で葬儀をすること、または、葬儀社がお寺に入り葬儀を行うことと単純に捉えていました。けれども、いろいろなお寺でお寺葬を導入していくにあたり、本堂で葬儀をすること、お寺に葬儀社が入ることをお寺葬ということに無理が生じてきました。まず大きなものとしては「本堂で葬儀を行えないお寺」があるということです。本堂で葬儀を行えないお寺とは、いくつか理由があります。一番多いのは、「天部を祀っているお寺」ということです。台密(天台宗)・東密(真言宗)に関わらず、本堂で天部の神様をお祀りしているところは基本的に死はタブーです。そういったお寺の僧侶は、葬儀の際の衣と祈願をする際の衣は違う衣を使用するのが自然で、そういったお寺では本堂で葬儀をあげることはできません。次に、「葬儀社任せにするお寺」があるということです。葬儀社任せにするお寺とは、葬儀や弔いや法事に積極的ではなく、檀信徒や門徒にもあまり気持ちが向かないお寺の事です。堂宇を維持し本堂を厳かにしていくためには、住職ご家族の豊かさも含めどうしても金銭が必要になります。日本仏教は発生当時のインドの仏教やや南方上座部の仏教とは違い、伽藍の維持と発展が欠かせませんので、どうしても経営的な視点が必要になります。檀信徒や門徒の関係向上のためにも金銭的なものは不可欠です。これは日本仏教の宿命です。けれども、それを誰かに任せたり、自分は関係ないとお寺が思うと、葬儀社が葬儀をするためだけのお寺になり、弔いの価値が大きく損なわれてしまいます。つまり、本堂が使えないお寺や、お寺が葬儀に消極的であるなど、「お寺葬」と呼ぶための工夫が必要であると考え、最終的にいまの「寺院と葬儀社が共働し故人様を弔う」葬儀をお寺葬と定義したのです。お寺葬と寺院葬の違い寺院葬は文字通り、寺院(お寺)で葬儀を行うことです。葬儀社が主体の場合もあれば、お寺が主体という場合もあります。本堂で行う場合もあれば、お寺の境内の斎場で行う場合もあります。このように寺院葬は、どちらかに主導権があり、お寺と葬儀社が共働して葬儀を行うことができない葬儀のことです。寺院葬は、どちらか一方が葬儀の主導権を握っている点で、お寺葬とは明確に違います。まず「儀式」においてです。お寺葬は「寺院と葬儀社が共働して故人様を弔う」葬儀ですので、私たち葬儀社もある程度、葬儀のことについて理解し、より素晴らしい仏式葬儀を実現することを目的としています。具体的には「葬儀の次第を解説入りで作成し儀式のときに配布する」。「戒名や法名の作成された意味や意図を映像にして当日流す」。「御出棺の際に境内に梵鐘があればそれを打ち厳かな葬儀を演出する」などです。これがどちらかに主導権がある寺院葬ですと実現は難しい。お互いが故人様を想い、考えることでお寺葬は成り立つのです。当然、「費用」「依頼」「運営」に関しても同じことが言えます。寺院や葬儀社どちらかに主導権がある以上、費用は客観性がないため「非永続的な費用」か「暴利的な費用」、どちらかになりがちですし、依頼も不通だった場合の次の連絡先がないと不安を抱かせてしまいます。運営も独りよがりになりがちで、安かろう悪かろうか、豪華すぎる葬儀か、どちらかに陥ってしまいます。お寺葬は、どちらかに主導権のある寺院葬とは明確に違い、儀式、費用、依頼、運営など互いに質の高い葬儀を行うことに力を注ぐことが可能になるのです。お寺葬と本堂葬・寺葬の違い本堂葬は、本堂で行うお葬式のことです。お寺の本堂に祭壇を設置したり納棺をしたりするお葬式のことです。主に葬儀社が主導して葬儀を行うことが多いのがこの本堂葬です。本堂葬も寺院葬と同じで、どちらかに主導権があり、お寺と葬儀社が共働して葬儀を行うことができない葬儀です。また、寺葬(てらそう、またはじそう)というものも意味合いとしては本堂葬に近い葬儀のことを指します。本堂葬は主導権がどちらかにある時点で寺院葬に近いのですが、どちらかと言えば、葬儀社に主導権がある場合が多いでしょう。私も大手互助会の葬儀社で担当者として働いていた時は、よく本堂葬と言っていました。寺葬という言葉はあまり使いませんでした。本堂葬は、言ってしまえば、葬儀社への単なる「場所貸し」です。本堂を貸して、葬儀を行うだけの葬儀です。場所貸し自体は悪いことではありませんし、本堂で葬儀をすることで何か大きな意味が込められていることも事実です。けれども、やはり場所貸しは場所貸しで、それ以上でもなければ、それ以下でもありません。「素晴らしい仏式葬儀」を提供できるかどうかは疑問です。やはりそこに本堂でやるからには工夫が必要であると私は思います。よくお寺に対して葬儀社が営業に行きます。とかく「檀信徒や門徒の方を紹介してほしい」とか「お困りでしたら紹介してほしい」など。その気持ちは分からないでもありません。営業は大切ですし、お寺から1件でもほしいのは頷けます。けれどもそれ以前に、どれだけ仏式葬儀のことを知っているのか、どれだけ仏教のことを知っているのか、どれだけお寺に貢献しているのか、まず自分を振り返った方がよいでしょう。仏式葬儀も知らず、仏教の興味もなく、お寺の行事に参加したこともない。そのような葬儀社が、得意げに本堂で葬儀をやることは、仏教にとって、故人様にとって、ご本尊様にとって、果たして良いことなのか私は分かりません。お寺葬は、葬儀社が場所貸しで行う本堂葬・寺葬とは違い、ご本尊様に恥ずかしくない葬儀を心がけ、素晴らしい仏式葬儀を行うことができます。お寺葬の意義私たちは日本でただひとつの、お寺と葬儀社が共にひとりの命を弔う「お寺葬」の専門葬儀社です。儀式の執行者としての僧侶。食事などを手配する葬儀社。このふたつが弔うことを認め合い、新しい価値を生み出すことが私たちの使命です。お寺葬に関してはこちらから>>>お寺葬についてみる文責:足立信行
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  • 無宗教葬って?
    無宗教葬とはどんな葬式か僧侶や神主、神父や牧師など宗教者を介在せず「お別れ会」や「告別式」のみを行うことを別名「無宗教葬(むしゅうきょうそう)」と言います。文字通り既存の宗教がない状態での葬儀であるため、無宗教葬というのですが、全体の1割とか2割くらいが無宗教葬をやります。音楽で見送る音楽葬や、故人の好きだったものをビュッフェ形式で会食しながら弔うなど、形式にこだわらない葬式であるため、別名「自由葬」とも呼ばれています。遺影はかざり、お花の祭壇を設え、納棺もしますので、見た目はあまり、普通の葬儀と変わりません。無宗教葬の次第無宗教葬の次第は概ねこのようなものです。?開式の辞?黙とう?故人の思い出→メモリアルのDVDを放映?弔辞1 友人代表の挨拶?弔辞2 家族からの言葉?弔電?献奏(けんそう)→好きだった曲を流す?献花?お別れ→お花入れ?喪主挨拶?閉式の辞?の献奏ではコーラスが好きだった方の場合はコーラス部の方が歌うこともあります。形式にこだわらないという点ではまさしく自由であり、宗教者が介在しないという点ではまさしく無宗教です。無宗教葬は宗教葬です私は以前からこの「無宗教」という言葉にとても大きな違和感を持っていました。無宗教といのは宗教が無いという意味で、無宗教葬は宗教がないため無宗教だ、という方もおられるのですが、私は違うと思っています。無宗教は宗教が無い。ここまでは正しい。であれば、そもそも葬式は必要ないはずです。人が亡くなり、生物的に死亡が確認される。無宗教の人であれば宗教がないため、生物としての活動が終わったと考え、すぐに火葬をして終わり、というのが本来ではないでしょうか。葬式などあげる意味など無宗教の観点からみれば意味などないはず。また100歩譲って葬式をしたとしても、祭壇や遺影はなんでしょうか。祭壇などまさしく宗教の象徴であり、遺影も無宗教者からするとただの紙切れです。「遺影は故人の面影です」という言説などは宗教の専売特許ともいえる発想です。無宗教葬であれば納棺は死化粧などせずただ入れるだけでいいし、弔辞や弔電などもってのほか。献奏などは故人の御霊がよろこぶようにするための「供養」のひとつであるし、献花や供花も御霊が安んずるためのもの。霊という存在を認めていないと、献奏も献花も供花もできるはずがありません。つまり、無宗教葬とは無宗教と言う名を前面に出した、宗教葬なのです。まったくなにとひと「無」「宗教」ではない。そこかしこに宗教があり、そこかしこに霊の存在と認めている。本当の無宗教葬とは先述した通り、亡くなったらすぐ火葬しておわり、という直葬に近いものになるのだと思います。「無宗教葬」をするのは自由ですし、いろいろな考えはあってしかるべきです。けれども決してそれは宗教が無い葬式を意味するのではありません。宗教者がいないだけで、霊の存在を認め、御霊を慰撫することで供養になる神道や日本仏教、あるいは先祖崇拝の儒教の思想にきちんと則っており、祭壇を設えることで神の御許に行くキリスト教思想を彷彿させる、幾層にも重ねられた、複合的に調和された宗教葬であることを認識いただきたいと思います。何度も言いますが、本当の無宗教葬は直葬です。お寺葬の意義私たちは日本でただひとつの、お寺と葬儀社が共にひとりの命を弔う「お寺葬」の専門葬儀社です。儀式の執行者としての僧侶。食事などを手配する葬儀社。このふたつが弔うことを認め合い、新しい価値を生み出すことが私たちの使命です。お寺葬に関してはこちらから>>>お寺葬についてみる文責:足立信行
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  • お寺葬のお寺 勝養寺様の声
    お寺様のご紹介 葛飾区青砥 真言宗豊山派 勝養寺様弊社との初めての出会いはどういうものでしたか?代表の足立さんと初めてお合いましたのはご紹介からでした。共通の知人がおりまして、その方からご紹介をいただいたのがきっかけです。足立さんは当時はまだIT企業にお勤めで、それでもお寺を何とかしたいという想いがひしひしと伝わり、想いの強い方だなぁ、という印象を受けました。私との年齢も離れておりますが、古義、新義と派こそ違えど、同じ真言宗ですので、お寺に対しての目線や考え方、ものの捉え方が同じでしたので、気安く話しができました。それから一度、連絡を取らなくなっていたのですが、起業されて改めてお会いしまして、現在に至ります。勝養寺様にとって弊社はどのような存在でしょうか。まず、お寺をなんとかしたい、仏教をなんとかしたい、という強い考えがあって、そのためのWEBや寺報の作成、コンテンツの作成、発信など、同じ目線で活動してくれるのがありがたいです。いわば、パートナーのような存在で、言うだけで終わりではなく、一緒に実行してくれます。それに、WEBをつくる会社や寺報をつくる会社はたくさんあるんでしょうが、私どもの考えをまとめて、全てを1本の線につないで情報の整理をしてくれるところも助かってます。言いたいことをまとめて発信をしてくれます。言葉ひとつにしても、仏教は長い歴史がありますので、そこも容易に理解してくれますので助かります。 実際、どんな影響がありましたか?外に掲示板を設置したり、寺報をつくったり、仏教の勉強会を行ったり、徐々にですが檀家から「お寺、変って来たね」と言われるようになりました。これまでお寺に来たことがない方も見えられ、少しずつですが活性化するようになりました。コンテンツも一緒につくりますので、ご供養やご祈祷のことなど話しながら、行動に移して動いてくれます。住職や住職家族だけだとなかなか行動に移せなかったり、億劫になりがちな作業も手伝ってくれますので今まで以上にお寺がよくなりました。
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  • お寺葬のお寺 全昌院様の声
    お寺様のご紹介 豊島区東長崎 曹洞宗 全昌院様全昌院様では地域に根差した様々な活動をされておられます。坐禅や精進料理教室。変わったところでは健康吹き矢など。活動の詳細は後ほどお伺い致しますが、先ずは弊社をお知りいただいたきっかけは何でしょうか。代表の足立さんと2013年の11月くらいに仏教の勉強会で知り合ったのがそもそものきっかけです。当時、足立さんはエンジニアで、独立していませんでした。グループディスカッションの際にテーブルが同じで、妙に気が合いまして、そこから翌週、来院いただき、翌年から終活セミナーを運営しました。以前からホームページがほしいと考えておりましたのでご相談して、当院のサイトを作成、運営してもらっております。その他にもITの分からないことなども気安く聞いておりますので、大変助かっております。様々な活動の中でも特に古い、精進料理教室と坐禅についてお伺いしたいと思います。まずは精進料理教室からお伺いできればと存じます。精進料理教室は今から10年程前から始まりました。坐禅に来ていた方から、「精進料理を教えてほしい」と依頼されたのがきっかけです。現在と同じ、月に1度は実施しております。最初はそれほど参加者も多くなかったのですが、現在はほぼ満員の状態が続いております。特に下煮、下味の味見が喜ばれております。運営や質も勘案して参加者は常に10名としておりますが、懸命に学んでいただいております。レシピをお伝えしたり、最終的にそれを召し上がっていただいたり、お陰様で参加者からは好評です。1度はやめようと思ったのですが、続けてほしいと、多くの方から言われましたので、現在まで続いております。それでは、坐禅に関してお伺いできますでしょうか。坐禅は昭和51年9月に始まりました。回数は優に2,000回以上を超します。精進料理と同じくこちらも最初は少ない人数から始まりましたが、それでも継続していくと徐々に広まっていきました。坐禅をした後は、祖録の講読をしておりますが、現在は『正法眼蔵随聞記』を分かりやすく説かれた晴山俊英先生の『道元さまが教えてくれた 心のコンパス―『正法眼蔵随聞記』に学ぶ― 1』を読んでおります。故人となった会員が転勤先でも坐禅会に通い、そこでお粥を頂き、苦手意識を克服したと聞きました。初期会員2人の内のひとりですが、そのようなご縁をつくれたことも良かったと思っております。
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